某大学運動部の寮から大麻等が見つかった事件が世間の注目を集めていますね。
大麻をはじめとする違法薬物の危険性については、これまで学校教育や報道において何度も伝えられているのに、なぜいつまでもこのような事件が起こるのでしょうか。
教育や報道が不十分なのでしょうか。もっと頻繁に、徹底的に注意喚起すれば、若者は麻薬に手を出さなくなるのでしょうか。
どうもそうではない気がします。
私は、教育や報道の「しかた」に問題があるのではないかと思っています。
一言でいうと、
「危険性を強調するあまり、実態と異なるイメージを作り上げてしまっている」
のではないかと思うのです。
今日は、教育や報道が作り上げる「イメージ」の功罪について、個人的な考えを述べたいと思います。
はじめに(おことわり)
違法薬物の問題は、買い手だけの問題にとどまらない複雑な背景・構造があり、それゆえに解決(違法薬物の根絶)が困難なものとなっていることと思います。
また、某大学の事件にしても、報道されているように大学や部の体制面・対応面にも問題があったのではないかと感じています。
しかし、ここではそういった内容には踏み込まず、あくまで教育や報道により作りあげられた「イメージ」の功罪という観点から考えたいと思います。
違法薬物の「イメージ」
みなさんは、「違法薬物(麻薬)」と聞いて、なにを思い浮かべるでしょうか。
「ダメ。ゼッタイ。」の標語、シンナーでボロボロになった歯の写真、麻薬中毒によって別人のような顔つきに変貌してしまった人の写真、麻薬中毒の患者が描く常軌を逸した絵……
同じようなものを思い浮かべた方が多いのではないでしょうか。少なくとも、上で挙げた標語や画像に心当たりのある方が多いのではないかと思います。
私たちは多くの場合、学校の保健体育の教科書、麻薬撲滅キャンペーンのポスター、麻薬関連の事件を扱った報道番組等により、これらの標語や画像を知ります。そして、同様の情報に繰り返し接することで、違法薬物がどのようなものであるかについての漠然としたイメージを形成・強化していきます。
ここで気を付けたいのは、上記は違法薬物についての「体系化された知識」ではなく、あくまで「イメージ」に過ぎないということです。
たとえば、みなさんは「大麻」「覚せい剤」「コカイン」「ヘロイン」「MDMA」といった違法薬物の違いを具体的に説明できるでしょうか。それはどんな形・見た目をしているのか、どのように使用するものか、どのような成分を含み、どのような効果があるか……説明できるでしょうか。
私はできません。
形や見た目については、保険体育の教科書で見た記憶があります(大麻は葉っぱ、覚せい剤は粉? コカインとヘロインは注射……で合ってたかな。MDMAはファンシーな見た目の錠剤だったはず……)。
しかし、それ以上のことはわかりません。危険度にも違いがあるらしいということは知っていますが、順番をつけろと言われたら正解できる自信は全くありません。(大麻は比較的危険性が低いという話だった気がする……そのためゲートウェイドラッグとなりやすいとか……)
これが、「体系化された知識」を持っていない、ということです。
(知識を持っていたとしても、それは非常に断片的で、かつ正確性が疑わしい……)
その代わりに、私は違法薬物について「イメージ」を持っています。
それは先に挙げた標語や写真といった具体的な「像」のあつまりであり、また、それらにより形成された、違法薬物は「人間を壊してしまうもの」「手を出すと人生が終わってしまうもの」「取り返しがつかない損害を与えるもの」という「イメージ」です。
これは漠然とした、しかし強固なイメージです。
誤解を恐れずに言えば、もはやイメージを通り越して、違法薬物に対する「ステレオタイプ」や「偏見」の域に達してしまっているかもしれません。
私が勉強不足・知識不足なだけだと言われてしまえばその通りですが、同じようなイメージを持っている人は決して少なくないのではないでしょうか。
「イメージ」の功罪
こういった「イメージ」を持つことには――それが「体系化された知識」とは言い難いものであっても――それなりに良い効果があります。
それは、違法薬物に「手を出す」ことの抑止力となることです。
現に、私はこれまで生きてきて一度も、違法薬物に手を出そうと思ったことがありません。入手しようと思ったこともありませんし、入手方法を知りたいと思ったこともありません。なぜなら、違法薬物に対して、先に述べたような「イメージ」を持っているからです。この「イメージ」を持っている限り、私は違法薬物に近づくことはなく、むしろ積極的に距離を取ろうとすることでしょう。
しかし、こういった「イメージ」を持つことには――それが「体系化された知識」でないが故に――ある“危うさ”があります。
たとえば、数年前のある事件。
大河ドラマに出演していた有名俳優が、コカインを使用したとして逮捕されました。報道によると、その俳優は20代のころからコカインや大麻を使用していたそうです。
事件そのものにも大変驚かされましたが、私が気になったのはもっと別のことでした。
「イメージとずいぶん違うな……」
ここでいう「イメージ」はもちろん、違法薬物に対してのものです。
違法薬物は「人間を壊してしまうもの」「手を出すと人生が終わってしまうもの」「取り返しがつかない損害を与えるもの」だったはずです。
逮捕された俳優は当時50代でした。報道が正しいとすれば、その俳優は20年から30年もの間、コカインや大麻を使用していたことになります。私の「イメージ」では、とっくに廃人(言葉は悪いですが)になっていてもおかしくない使用歴です。
にもかかわらず、その俳優は逮捕直前まで数々のドラマや映画に出演していました。もしかしたら、人相や私生活の言動には多少、薬物の影響が出ていたのかもしれません。しかし、多くの人がそれとわからずに接していたのだろうと思います(なにせ、大河ドラマにまで出演していたのですから)。
念のためことわっておきますが、私はこの記事で「麻薬は実は安全だ」とか、「麻薬を使っても大丈夫」ということを言いたいわけではありません。違法薬物は決して手を出してはいけないものだという考えに変わりはありません。
私が問題にしたいのは、先に述べたような「イメージ」の“危うさ”についてです。
私は、先ほどの報道を見聞きするなかで違法薬物に対する「イメージ」が揺らぐ感覚を味わいましたが、所詮はテレビの中のお話、芸能界という遠い世界の出来事にすぎないものとして、この問題のリアルな重みを見過ごしていました。
しかし、これが芸能人ではなく、親しい友人や、部活・サークルの仲間・先輩だったらどうでしょうか。
仲が良くて信頼している人たちが、「楽しんでほどほどに麻薬をたしなんで」いたらどうでしょうか。知らずに参加したパーティで誰かがおもむろに麻薬を使いはじめ、あっという間にドラッグパーティが出来上がってしまったらどうでしょうか。
きっと、その場においては「違法薬物の使用」に対する深刻な空気は一切なく、誰もが気軽に、コーヒーでも飲むように麻薬をたしなんでいるのでしょう。そして、その場にいる誰もが、驚くほど「普通」なのに違いありません。目がおかしかったり、言動が支離滅裂だったり、そういう「異常」な人はいないのでしょう。
幸いなことに、私は知人・友人からこのような招待を受けたことはありませんし、このような状況に置かれたこともありません(したがって、上の記述はすべて私の想像・妄想にすぎません)。
しかし、大学生や若者たちがこういった状況に置かれたとして、場の空気や人間関係を振り払って、違法薬物の使用を拒否し、警察に通報することができるでしょうか。
もちろん彼らとて、「麻薬はよくない」という認識はあるはずです。最初に挙げた数々の「イメージ」も持っているでしょう。しかし、目の前の現実に対して、その「イメージ」がどれほどの力を発揮できるでしょうか。
人は、目の前の現実を真実だと感じてしまうものです。
いくら違法薬物に破滅的な「イメージ」があっても、現実に破滅していない人たちが目の前にいて、
「教科書に書いてること信じてるの? あんな風にはまずならないよ」
「やりすぎなければ大丈夫」
「タバコの方が危ないよ」
なんて言ってきたら、どうでしょうか。
もしかしたら、その場だけでも違法薬物に手を出してしまうかもしれません。
そして、実際に違法薬物に手を出してみて、「イメージ」していたのよりも「大丈夫」だったとしたら……。二回目の使用はもっとハードルが低いものとなるに違いありません。もはや、かつて抱いていた「イメージ」は「間違った思い込み」として捨て去られてしまうことでしょう。
私が指摘したい、「イメージ」の“危うさ”とはまさにこの点にあります。
「イメージ」は、それが漠然としたものであるが故に、目の前の現実という「真実」に勝てません。そして、ひとたび敗れ去った「イメージ」は、「間違った思い込み」あるいは「教科書のウソ・こけ脅し」とみなされ、これまで信じていたことが裏切られたことによる反動もあってか、急速に地位を失ってしまうのです。
(少し脱線しますが、こういった「イメージや思い込みから解放された人」はなぜか、正しい知識を身につけようとするのではなく、目の前の現実(知人、youtuber、インフルエンサーなど)を信奉し、より反知性的な方向に走ってしまう傾向があるような気がします。現代の反知性主義・反知性的行動については別の機会に考察したいと思います。)
以上のように、違法薬物に対する「イメージ」には、抑止力として一定の効果があることは確かだと思います。しかし、「イメージ」には“危うさ”があります。それは、目の前の現実に打ち勝つことのできない貧弱さ、ひとたび壊れると急速に失われるという脆さにあるといえるでしょう。
他の事例に見る 「イメージ」の“危うさ”
他のケースでも、同じような「イメージ」の“危うさ”を感じることがあります。
たとえば、特殊詐欺に関する報道、注意喚起ポスターなどで使われているイメージ画像において、多くの場合、詐欺師は「悪そうなアイコン」で表現されています(黒いシルエットで、目は逆三角形の白抜き……どうです、すぐに思い浮かぶでしょう)。再現VTRなどで「いかにも悪そうな顔」の俳優が詐欺師を演じていることもありますね。
こうした表現が、内容を伝わりやすいものにしていることは間違いないでしょう。しかし、考えてもみてください。現実の詐欺師は、そんなに「悪そう」な見た目をしているのでしょうか。むしろ、どこにでもいそうな普通の見た目をしていたり、誠実そうな顔つきをしていたりするのではないでしょうか。
詐欺被害にあう人だって、詐欺に関する様々な報道や注意喚起を目にしているはずです。それでも詐欺にあってしまうのは、目の前の(あるいは電話越しの)人が詐欺師のイメージから程遠く、それと疑うことができなかったからではないでしょうか。
他にもあります。
サイバー攻撃を行うハッカー集団に関する報道では、薄暗い部屋で、緑色に光るディスプレイを前にキーボードを叩く手のイメージ映像が流れます。ハッカーはみんなマトリックスの世界にでもいるのでしょうか。もしかしたら、現実のハッカーは安アパートに住んでいて、コンビニ弁当やカップ麺を食べて生活している中年のおじさんかもしれませんし、あるいは意外と稼いでいて、港区のオートロックのマンションをアジトにして、毎晩シャンパンパーティをしている大学生の集まりかもしれません。しかし、先ほどの「イメージ」を持ち続けている限り、そういった人々を隣人が怪しむことはないでしょう。
「イメージ」を捨て、事実を見据える
分かりやすい「イメージ」が一定の効能を持つことは確かですが、同時に無視できない“危うさ”を抱えていることは、先に述べた通りです。私たちは、「イメージ」の“危うさ”を認識したうえで、事実に基づく「知識」を手に入れる必要があります。
このことは思っている以上に難しい。私たちは日常生活の中で、あまりに多くのことをただの「イメージ」に基づき判断し、行動してしまっています。「イメージ」の陥穽を回避することは容易ではありませんが、それでも、立ち止まって事実を確認したり、自らの知識に照らして情報を検証したりすることを習慣にすることで、事実を事実のまま認識する力が身につくのだと思います。
今回の記事を書くなかで、思い浮かんだ書籍があるのでご紹介しておきます。
『FACTFULLNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』
この本では教育、貧困、環境などの世界規模の問題について、私たちの思い込みがいかに現実と異なっているかを指摘し、データに基づく“正しい見方”を教えてくれます。
本屋でよく平積みにされているので、既にご存じの方も多いかもしれませんね。
この記事を書き始めたときには意識していなかったのですが、問題の規模と種類が違うだけで、「イメージ」や「思い込み」の“危うさ”を指摘している点で同様の主張がなされています。世界中で売れている大ベストセラーかつ良著なので、興味の湧いた方はぜひご一読ください。
以上、「イメージ」の功罪についての拙い考察記事でしたが、本記事がみなさまの思考・思索のきっかけや材料となれば幸いです。
お読みいただきありがとうございました。